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2010年5月12日 (水)

国道153号線 平谷村旧道と山辺の道(後編)

突き当たりを右に折れて、坂を下り始める。やや右へカーブして小さな切り通しに入ると

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眼前に並んで架かる二本の橋が見えて来た。
一本は目にも鮮やかな青色のトラス橋、そして手前には満身創痍の姿を晒しながらも、近在の交通を支えるコンクリート橋だ。


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まずは手前のコンクロート橋からみてみよう。
橋の名前は現存する親柱によれば、「柳橋」という。橋が跨いでいる川が「柳川(やなぎがわ)」だから妥当ではある。


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この「柳橋」だが、横から見ると此岸側橋台から橋脚までと、彼岸側橋台から橋脚までの径間で構造が異なっている。もともとは橋脚がもう一本あって、三径間だったのではなかろうか。
つまりもともとは三径間の橋が架かっていたが、大雨等の出水によって左岸側の二径間が流出してしまい、復旧に当たっては、流水の抵抗を受ける橋脚を省いて、左岸側は一径間として残った旧橋に繋げたと思われる。
ただ、橋の流失が何時頃に起こったのかは、修復された側に何の銘板も記されていなかったので、知る事は出来ない。


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こちらは現道に架かるトラス橋の銘板。これによるとこちらも「柳橋」だそうな。竣工が1976(昭和51)年なので、旧い柳橋が復旧されたのは、それ以前と考えて良さそうだ。残存する旧橋のデザインからして、この地域に残るコンクリート橋と共通するものがあるので、旧柳橋の竣工年も昭和30年前後とみてよいだろう。となると昭和36年に伊奈地方を襲った”36災害”が旧柳橋流失の原因なのかもしれない。

さて、ここまで辿った「山辺の道」だが、街道の痕跡と考えられる遺構は見つからなかった。ただ道の雰囲気は徒歩交通主体の頃なら、街道であったとしても不思議では無い線形を持っていた。
そこで国道153号線旧道を辿ってみる事にする。


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旧「柳橋」を後に現道との合流点を目指すと、右側の林の中に旧建設省の地境杭を発見。つまり旧「柳橋」はかつての国道であったという事だ。


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現道との合流点を振り返って撮影。案内標識の「うつぼ」だが、これはサカナのウツボでは無く、矢を収めて腰から吊る武具の「靱」の事。先程の旧柳橋を渡り川沿いに進むと「靱」の集落があり、そこには武田信玄が三河国へ侵攻した際の砦迹がある。その時の何らかのエピソードが地名として残ったんじゃないだろうか。
話は逸れるが、写真左側に写る「いろり焼き 大柳」だが、五平餅とアマゴの串焼きで有名。今日も結構な賑わいだった。


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現道端に立派な鳥居。傍らの解説によれば「平松の浅間社」である。
傍らには小さいながらも豊富な水量の滝が流れ、ここで富士浅間の行者が水ごりの修業を積んだそうだ。
本レポートの前編に登場した小さな祠は、本来はここにあった物が正徳五(1715)年の水害で遷座したものだそうだ。


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さて、何時までも道草を食ってはいられない。先を急ごう。
この浅間社前から旧道の路盤が延びている。柳平の集落を通り、現道へ復帰するのは「ほっとパークひらや郷」の手前だ。


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チャリで走り出してさしたる距離を移動する前に、街道由来の遺構が登場。馬頭観音石像群である。
という事はなにか?前編・中編を費やした「山辺の道」は街道由来でもない、単なる生活道路って事か?


Yamabe

ここで地形図を確認しておこう。現在地は地図中心のやや右上、碑の地図記号がある辺りである。
国道153号線の現道を無視すると、柳側を挟んで右岸側は「山辺の道」で左岸側が街道という事になる。
これを眺めていたら、一つの仮説が浮んで来た。そのヒントは浅間社に掲げてあった、説明文だ。

説明文によれば、浅間社が遷座した理由は「水害」であり、旧柳橋も左岸側に流失の痕跡を留めていた。他にも浅間社脇の推定樹齢600年の大柳も、度重なる水害で倒れてしまったとあった。そして旧柳橋にも水害の痕跡を留めていた事からも、街道の徒渉点は大雨で出水し易い場所である事が推理できる。
それでも徒歩交通が主体の時代であれば、橋が流されても水が引くのを待って徒渉すれば良いが、戦後のモーターリゼィションの世になれば、橋が流されればそれは物流がストップする事になる。そこで旧柳橋が通行不可能になった場合に備えて、柳川右岸に迂回路を用意したのではないか?もう少し考えを進めれば、村内に現存するコンクリート橋の竣工が概ね昭和28~38年で有る事から、旧柳橋の竣工も街道であった事む含めれば昭和28年頃と推測できる。そして迂回路の開鑿が旧柳橋の流失だと考えればその時期は昭和三十年代。となると法面の施工が妙に新しいのも納得出来る。


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柳平の集落を抜けて、現道に復帰。振り返ってみると、旧道の路盤敷は畑の畦となっているのが判る。
平松側は旧道の路盤敷が残されていたというのに。


「街道由来の道」という推理は否定されたが、地元の人も滅多には行き交わぬ道でも、路傍の草が刈り払われ木々の新芽が萌え出す前であったために、思わぬ眺望が得られたのは収穫だった。


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