2012年10月 2日 (火)

郷に眠る夢の跡 旧国鉄中津川線 伊那山本編 前哨戦

郷に眠る夢の跡 旧国鉄中津川線 伊那中村編」の続き。
天候は雨。更に雨故に出来た時間での探訪なのは判っていた。


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スタート地点。白く柵があたかも鉄路の様に、視界の限り伸びている。
今にも右カーブの向こうから、列車が表れそうな気がして来る。
しかし、視点を移してみると・・・・・


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鉄道予定地は、一段高い車道に飲込まれて消えていた。
この結果は既に、WEB上で情報を仕入れた段階で知ってはいたが、
天候の所為もあり、いささかセンチメンタルな想いに囚われた。


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鉄道予定線が飲込まれた理由は、三遠南信道山本I.C設置にともなう、
国道153号線山本バイパスであった。

三遠南信道のI.C設置のみなら、ここまで大規模なバイパスは必要なかったかもしれない。
しかしここ飯田山本で三遠南信道は中央道に接続する。
その為、増加する交通量を捌く為に、バイパスの設置が必要であったのだろう。
かつて、ここには切り通しが連続していたというが、その面影は殆ど判らない。
注意して観察すれば、切り通しの法面跡も残っているのだが、今日は割愛する。


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「白い鉄路」の終着点。来たりし道程を振り返る。
というのは嘘(笑)。クルマで迂回して来ました。
この築堤上は地元小学校の通学路なので、誰でも容易に辿って来る事ができる。
もちろん、実際に通行するのと迂回して端折るのとでは得られるものは異なる事は判っている。
問題はこの先。ここから二ツ山隧道までのアプローチを調査するのが今回の目的。


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はい、二ツ山隧道方面の様子。竹薮しか見えませんがな。
ほんじゃ、左の階段から下へ下りてみますか。


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跨線橋対岸の橋台。路盤は薮で覆われている様子。
この薮を回避して、二ツ山隧道山本側坑口までのアプローチを探るのが、今回の目的。

あわよくばご本尊を攻略せんと、20分ほど足掻いたものの、
正面から攻める以外には手がないとの結論に至る。
理由の一つは、中村側ほど山本側が市街化いていないのが大きい。
ただWEB上の記録を見て行くと、2003年頃に坑口前へ堅固な鉄柵が設置されているので、
その資材の搬入路などがあってもおかしく無いとも言える。
そう考えると工事用搬入路を何処に設置するのが良いか?
という視点で観ていくと、攻略できそうなルートが浮んで来た。


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2012年9月27日 (木)

山本村道路元標

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災害復興記念碑の足元に、草に埋もれながらひっそりとたたずむ、山本村道路元標。
道路を挟んだ向かい側に、飯田市役所旧山本支所があるので、この位置はちょっと不自然に感じる。
だが武節村道路元標のように、公民館前に存在している例もあるので、何とも言えない。
それに後方にちらりと見えている、蔵の土台の様なものは、山本商工会館だ。


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全景。
この写真を見て気付いたのだが、傍らに聳える「災害復興記念碑」が伝える災害とは、なんだったのかが気になる。
おそらく昭和36年(1961年)におきた、豪雨による「三六災害」の事だと思い込んで、確認してこなかった。
まぁ、再訪するのはそれほど難しくないので、確認して来よう。

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2011年10月26日 (水)

一宮市道路元標

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カテゴリ的には、ほぼ一年振りの新ネタだよ。
実は昨年の暮れに取材に行っているのだが、その時には見つける事が出来なかった。
まさか、歩道に塗り込められているなんて、普通は思わないよな。
撤去されなかっただけ、幸運と言えるのかも。


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尾張一宮 真清田神社前。


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2010年11月25日 (木)

小原村道路元標

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半ば以上を土に埋もれ、表面の刻印も風化して判読不能。過去に取り上げた道路元標の中でも、最も風化が激しいい。最初にアプローチした際には「これ、違うなぁ」と、スルーしたほど。
表面を指先でなぞった感触から、「小原村」まで判読できた代物。

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道路の線形としては典型的な「追分」。
しかし、旧小原村の地勢からすると、ここに道路元標を置いた理由に疑問を感じる。
道路元標が設置された大正年間は、徒歩交通が主体であり、「追分」は交通の要衝であったのだが、近辺の集落にはその「臭い」を感じない。

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2010年6月 4日 (金)

郷に眠る夢の跡 旧国鉄中津川線 伊那中村編

その「」の存在に気付いたのは、まったくの偶然からだった。国道153号線について調べているうちに辿りついた、飯田市教育委員会編纂の社会科向け教材のサイトの記述からだった。
残念ながらコンテンツは削除されてしまったらしいのだが、その文中には「今も中央自動車道と並んで現存している」とあった。その道の名は「国鉄中津川線」、伊那谷と木曾を長大トンネルで結ぶべく、計画された鉄の道となる筈の遺構跡だった。

その日、不調に陥ったチェンソーを修理すべく、飯田に向かっていた私はお腹の調子が思わしくなく、ホームセンターでトイレを借用しようと、国道153号線中村交差点を右折した。中央自動車道を潜る辺りで、「そういえば、中津川線跡はこの辺りだたよな・・・」と、右側へ視線を向けたその時だった。

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なんか、見える!?

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「そこに有る」事は既に知っていたし、国土地理院発行の地形図にも明確に記されていることも、確認済みではあったが、走り過ぎる車窓からでも確認できるとは思ってもみなかった。
今日の予定には入れていなかったが、所用を済ましたら訪れねばなるまい。


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WEB上で公開されている最新版1/25000図である。はっきりと鉄道の築堤とトンネル坑口が描かれている。
「現在位置」から「トンネル坑口」までに横たわる、”ゲジゲジ”が築堤の印だ。つまり上に掲載した全景写真だが、トンネル坑口までが鉄道として建設されながらも、開業することは無かった未成線跡と言うことになる。


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奇麗に草刈りがされた築堤を歩いて来ると、一気に道幅が狭くなっている。中津川線は単線として計画されたので、その途中に上下線の列車が行き違う「交換所」を設ける必要があり、ここに交換所を兼ねた「伊那中村」駅が設置される予定だった。


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「クルマさえ阻止できれば」なバリケードを越えて、坑口前に到達。鉄道単線特有の「馬蹄形”をした断面をもつトンネルが現われた。
この辺りまで近づくと、トンネルで冷やされた空気が天然のクーラーとなり、心地好い冷気を吹き出してくる。この日は本州の各地で「夏日」を記録しており、ここまでの500m程を歩くだけでも、額に大粒の汗が浮ぶほどだった。


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金網の隙間から、トンネル内部をパチリ。
木箱というより、木製アタッシュケースといった趣の箱が、積み上げられている。箱の大きさから見て、図面を保管しているようだ。

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このトンネルの名前は「二ツ山ずい道」。二ツ山(標高727.7m)を貫く、延長1000m強のトンネル。
竣工が昭和44年と言うことは、まだまだモーターリゼーションが未発達な時期であり、「順調に開通していれば」の思いを拭えないが、今に至っては詮無い事だ。


ここで、国鉄中津川線の歴史を簡単に紹介すると、その原計画は1920年(大正9年)んまで遡る。当時、後の国鉄飯田線となる伊那電車軌道は、辰野~高遠原間での営業を行いつつ、飯田までの延進工事に取り掛かっていたが、飯田よりの南進については地形の険しさや、輸送需要の見込みの目処が立たず、計画は未定であった。
結果として免許取得には至らなかったものの、「伊那谷と木曾を鉄道で結ぶ」という構想は、事あるごとに再燃し様々な紆余曲折を経た後に、1961年(昭和36年)に建設予定線となり翌1962年に建設線への昇格が決定される。
しかしながら、飯田と中津川を隔てる恵那山の存在は正真証明の山だけに、容易に鉄道が通る事を許さなかった。様々な調査・検討の結果、全長12.7kmの「神坂トンネル」を掘り抜くルートが1966年(昭和41年)に工事実施計画として認められたのを受け、鉄道建設公団は測量を開始し、買収すべき用地の査定に入る事となる。
しかしながら用地取得に対し、地元からの猛反発が起る。同時期に中央自動車道の用地買収も始まったからだ。山間においては貴重な緩傾斜地は、貴重な耕作地でもある。そこに単線といえども鉄道と、上下合わせて四車線の自動車道を遠そうというのだから、当然のことであろう。
それでも長野県の仲介により難航しつつも土地買収もすすみ、1967年(昭和42年)に二ツ山トンネルの掘削工事が着工された。トンネルと飯田市中村地区の工事は順調に進み、1971年(昭和46年)までには大方の工事は完成する。この完成した区間が、正にこの場所なのだ。
その後、愁眉の的であった神坂トンネルの試掘にも着手されるものの、オイルショックによる不況や国鉄の赤字経営の問題、そして中津川線に先行していた中央自動車道「恵那山トンネル」の開通により、1975年(昭和50年)には中津川~駒ヶ根間が開通し、物流の主役は急速に鉄道から自動車輸送にシフトしていく。そして遂に1980年(昭和55年)に工事はストップし、1981年(昭和56年)に成立した国鉄再建法案により、国鉄は分割民営化され建設途中の資産は清算事業団に移管される事になり、中津川線も開通の夢を絶たれる事になる。

ふぅ~、簡単にしたつもりだけど、それでもこれだけの量になっちまう。他にも様々なエピソードがあるのだが、それらは又の機会に紹介しようと思う。

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坑口から吹き出す涼風で、火照った身体をクールダウンしていると、祠と思しきものが目についた。
斜面をよじ登って確認したら、なにか小動物向けの巣箱であった。サイズ的にはフクロウやコノハズク向けと思われるが、巣穴が開いて無いし用途不明な物件。


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坑口真上から、来たりし道を臨む。
一直線に伸びる築堤の様子が、一望にできるアングルだった。しかし、どこか寒々しい景色でもあった。
同じ「未成線」の運命を辿った名鉄三河線と異なり、”生活の臭い”が無いからだろう。その一つの原因は、足元に存在する隧道(トンネル)が閉鎖されている事にある。尤も単線のトンネル断面では、車両の対面通行は物理的に出来ないのだから仕方が無いのではあるのだが。


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2010年5月27日 (木)

高速道路

通勤に高速道路を使っている。通常は東名阪を使っているのだが、今週からリフレッシュ工事が始まり、朝から大渋滞なので、工事が終るまで名神高速道路で代用している訳だ。
名神高速も昔は良く使っていたのだが、諸々の事情から十数年ぶりなのだが、走って見ると快適だねぇ。東名阪も先行開通していた名古屋西以西はともかく、名古屋~名古屋西は高架道路なので、幅員が狭く遮音壁に囲まれているので、視界が得られず窮屈な事に気がついた。
対して名神は濃尾平野の北部を貫いており、周辺もまだまだ未開発の田園地域なので、視界も広く道幅も広い。東名阪並に車線の幅員を抑えれば、三車線+路側帯にできるだけのポテンシャルはあるんぢゃね?
そしてこれが一番大きいのだが、濃尾平野を東西に抜ける自動車道が先に挙げた東名阪に加え、伊勢湾岸道も開通したおかげで分散し、朝の通勤時間帯での走行速度が回復している事だ。以前は小牧~一宮間は随分と我慢の運転を強いられたもんなぁ。
ただ、良い事ばかりでも無くて、自宅から直近のインターまで少し時間がかかるのと、東名阪と比べて10km程の遠まわりになる。あと本線上で事故でもおきれば、逃げ場(回避ルートの選択肢)が無いのもネック。
でも良く晴れた日には、名神の方が景色が楽しめるから、気分で使い分けてみようかな。


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2010年5月26日 (水)

国道153号線 谷間に消えた"中馬"の道(後編)

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ヘアピン状のカーブの内側に、打ち捨てられたが如きな佇まいを見せる、コンクリート橋。この位置だとドライバーからは上下線ともに見えない位置だ。座席位置の高い大型トラックなら、下り線からなんとか見えるかというところか。
何度通ったか判らない程なのに、気付かない訳だ。
対岸の橋の袂が駐車帯になっているので、そちらからアプローチする。


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親柱は四本とも健在であったが、惜しむは銘板は失われている。なんとか判読可能だったのはこれだけだが、竣工年すら判読不能だ。ただ残された部分から「和三十年十○」はなんとか読み取れる。
ちょっと不思議なのは、幅員が狭い事。治部坂橋や栄太橋は3mはあったのに、この橋は2.5m前後と狭い。竣工年からすると前二者と同時期の構造物であり、欄干に凝るくらいなら同規格で架橋しても良さそうなものだ。


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橋上から現道を臨む。
現道は橋では無く、ボックスカルパート(管渠)で沢を跨いでいる。1/25000図では水路が描かれていないがこの沢は、もう少し下流で「治部坂川」と名乗りを上げ、浪合地区より「和知野川」となって天竜川に至る。

橋の両端は、現道の築堤に飲み込まれており、そこに”道”の痕跡を見出す事は叶わなかった。
ただ、橋の軸線(中央線)を南へ延ばすと、これから走る予定の道へ突き当たる事は確認出来た。


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見つけた「橋」をフレームに入れようとしたけど、これが限界。だってねぇ、連休明けの週末なのに、ひっきりなしにクルマやバイクが通るんだもん。撮影ポイントなんて選んでいられません。
目指す”道”の入り口は、ガードレールの切れ目から。


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「妖怪ポスト」か?と思ったのは、中馬街道跡を示す道標だった。つまりは「三州街道」の名残だと言うこと。
ところでこの道標は、いやに新しくないかや?

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真新しい道標の向かいには、こんな「脅し文句」が設置されている。
「山林資源の採取の禁止」は理解できる。だが「歴史ある道」を辿るのは、「無断入山」と判定されるのか否や。
浪合支所に問い合わせようにも、今日は日曜日なんですけどね。念のために電話してみたけど、呼び出し音が空しく響くだけでした。


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「史跡 中馬街道」の碑。「脅し文句」で入山を拒んでおきながら、碑を建立する意図が良く判らないんですけど。
実際に辿った結果から言えば、「余所者には入って欲しく無い」道なんだろうけど、それならこの碑の建立費は税金の無駄使いって事になる。


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道は未舗装で幅は3m程か。ダブルトラックが刻まれており、少なくは無い通行量がある事を示している。
が、これが”中馬(三州)街道跡であったとすると、いくつかの疑問が湧いて来る。左側に写る擁壁は現場打ちのコンクリート製。苔むしていて旧そうではあるが、道路構造物としてコンクリートの現場打ちが一般化したのは戦後のことだという。また、道路の舗装が始まったのが昭和三十年前後からという事を考えると、路面が未舗装である事ととの整合がとれていないのではなかろうか。
また現に於てこの区間(治部坂)の整備が始まったのは昭和45年頃からで、ピークは48年頃になる。当然の事ながら工事現場へは大型車がひっきりなしに通る訳で、未舗装のままではその通行に耐えられないと思うのである。


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道は橋を渡り、沢の左岸へと移る。
橋自体はや農道で見かける、簡易なコンクロート桁橋で親柱や欄干等の装飾は一切無し。
この手の様式は割と新しいもので、工場で桁を作って現場へ運び込み、橋台に据えるだけと、現場打ちに比べて工期を飛躍的に短縮する事が出来る。想像するにここにも本来は前出の橋と同様に、昭和30年前後に橋が架けられたが、なんらかの原因(それは主に豪雨等の自然災害)で流失してしまい、その時期が現道の工事期間中でもあった為に、仮設道路が用意されて街道跡は廃道となった。しかしながら近年になって、観光資源として整備し直されたのではなかろうか。
こうなると前出の廃橋を丹念に調べてこなかった事が悔やまれる。橋の路盤がコンクリートかアスファルトかで、変遷の様子が推定し易くなるはずだから。


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上の撮影ポイント左側には、馬頭観音碑が一基だけポツンと建っている。
石に刻まれた文字も判読可能なことから、新しっぽいなぁ。表面の劣化度合も、入り口に有った史跡碑と良く似ているんですけど。

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橋を渡ると勾配を増して、高度を稼ぎはじめる。
いくらか、轍跡が薄くなっている様に思うのは、気のせいなのか?
でも、「古街道」っぽくて好きだよ、こういう雰囲気。


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坂を登りつめると、丁字に突き当たった。右へ行くか左へ行くかで迷うところだが、迷う必要などない。
左に行けば民家の玄関先を掠めて現道へ復帰し、右に行けばやはり民家に突き当たっての行き止まりである。
そして行方を遮るのは、現道の築堤だ。
そして往路でエントリーポイントを見つけられなかった理由も判った。要は「民家への進入路(≒私道)」としか見えなかったからだ。なので場所を特定できる写真はボツ。

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現道へ戻り、スキー場の駐車場入り口前で思案。
法面の様子を観察しても、旧道跡を利用している様には見えないのだが、左フレームアウトに治部坂川が流れている。往路でここは確認しているのだが、橋が架かっていた痕跡はナッシング。
しかしこの駐車場への誘導路を延長すると、辿って来た道に無理なく繋がるんだよね。そして地形から考えても、ここから治部坂川沿いに下って行く方が、徒歩交通が主体であれば無理の無い線形である事も事実。
それにしても、橋や法面という道路構造物の形式に、一貫性の無い道というのも珍しい存在だ。


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2010年5月24日 (月)

国道153号線 谷間に消えた"中馬"の道

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治部坂高原周辺で、旧道の痕跡を探しながら地図を眺めていて気付いたのが、今回の道。
治部坂高原の飯田側に国道が大きくS字を描いているが、このS字カーブをショートカットする自動車道が描かれている。昭和51年に撮影された航空写真に写っている、旧道の痕跡と思しき道跡も、ちょうどこの辺りで現道と交叉している様に見える。
ただ、記憶の中に道があったかの覚えが無いのだ。辛うじてS字との交点に「それらしき痕跡があったかも」という程度。距離としても治部坂高原の駐車場から往復2km程だから手頃な距離でもあり、チャリで出かけてみる事にした。

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いつもの様に「キッチンストーブ」に妻を置いてスタート。国道から治部坂観光センターへのアプローチから、行く手を見渡す。
スキー場の拡張工事で、大規模に地形改変されているので、旧道痕跡は無理っぽいなぁ。
この「治部坂高原スキー場」は、現在は国道端がゲレンデ最下端となっているが、1980年代のスキーバブルの際にゲレンデ下部を現在の様に拡張したもので、もともとは上部1/3で営業していたこじんまりとしたスキー場だった。
意外と知られていないのだが、ここは「スキー場全面を人工降雪機による営業」を、全国でも初めて行ったスキー場でもある。人工降雪機の導入は志賀高原の横手山だったかが初めてのはずだが、それはあくまでも雪付の悪い急斜面での補完を目的としたものであり、スキー場全面をカバーする訳ではなかった。
とは言え、営業開始時ではリフトは一本きりなので、「全面」といったところで大した広さでは無かったのではあるが、ろくな公共交通機関の無い山の中で、スキー場を開発した行動力・企画力には目を見張るものがある。ちなみに私が初めてこのスキー場に訪れたのは、高校生の頃なので今から30年前の話し。更に小学生高学年~中学まで購読していた「子供の科学」誌に紹介されていたので、少なくとも30年以上の歴史を持つスキー場である。


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閉鎖されたホテル跡。ここもスキーバブルを当て込んで営業を始めたものの、バブルが弾けて利用客が落ち込み、廃業に追い込まれた。それでも1990年代半ばまでは、スキーシーズンには家族連れで賑わっていたのだが。当時は周辺の日帰り温泉施設が、年末・年始に営業しなかったので、ここのお風呂を利用したものである。
ちなみに寒原峠近くにも温泉ホテルがあるが、そちらは年末・年始中は日帰り入浴はお断りな上に、入浴料も高かったので、我々の間ではメチャメチャ評判が悪かったのだが、今でも営業を続けている。

ところで、地図上ではこの辺りがエントリーポイントのはずだが、周辺を探しても道らしきものは無い。あっても民家への進入路しかみつからないのだ。【現在位置】

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逆方向から辿れば良いからと前進。「S字カーブまで200m」の警告標識が現われると、道は勾配を増しながら軽く右へ振った後に、左直角コーナー→S字とテクニカルな展開を見せる。二輪なら車線幅でもコース取の自由度は高いが、四輪ではエイペックスを深めにとらないとカーブ出口で減速を強いられるんだよね。前に”蓋”がいなければ、コーナーワークが愉しめる線形ですな。(笑)
しかし左端に写っている「悪の帝国一味」の看板は目障りだな。

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直角カーブを抜けてS字の最初の立ち上がり。チャリの機動性を使って、反対車線からの眺め。
こうやって見ると判るが、張り出した尾根を切り通しにしているので、かなりの土工量になる。これを開鑿したのは昭和30年代以後の、機械力を当てに出来るようになってからでは無いだろうか。となると治部坂峠で切り通しを開鑿した時期とほぼ同じ頃に出来た道ではないかと、疑問が湧いて来る。

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ダウンヒルを愉しみながら下って来た。目指す道のエントリーポイントまであと僅かってところで飛び込んで来たのは何?
なんか萌え出した若葉に隠れているつもりっぽいけど、それって「欄干」って奴ではないですか?
ってか、こんな処に「」があるなんて、これまで全く気付かなかったんですけど?


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2010年5月21日 (金)

名鉄三河線 未成線区間(西中金~足助町)後編

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現在位置は城見町と野口町の町境付近。国道に寄り添うかの様に描かれた、細い道が国道に交わる場所だ。

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対岸には橋台が残っているが、此岸は築堤の一部が切り崩されて、土留めのコンクリートブロックに被われるのみ。
国道との比高は、4~5mといったところだろうか。忙しない国道と比べると、なんとものどかな風景に、心がなごむ。


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さて、残されたこの橋台だが、どうやって攻略してくれようか。
WEB上の記録を漁っても、この橋台に登ったという記録は見つからなかった。
攻略ルートを探して、国道上を行きつ戻りつするが、田圃や畑を横断せずには取り付けず、しかも今日は野良仕事に精を出す方々が大杉。


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野口町側へ100mほど、なんとか取り付けそうな場所を見つけた。ここなら畦道でアプローチできるそう。
と、乗り込んでみたら、潅木に隠れていた斜面が、ちょっとした崖斜面だった。高さは3m程なのであがけば何とかなるが、先にも書いたように今日は人目が多すぎる。
ここは諦めて迂回するしかないな。


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500m程を迂回して、新しげな道の終端に到着。
実はこの道路、未成線跡を使って最近になって造成された道なのだ。
鬱蒼とした照陽樹と落葉樹の混交林ゆえ、林床の薮が薄いのは救いだが、こういう雰囲気は大概、泥濘んでいる事が多いんだよなぁ。


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かつては田圃だったと思しき平場を抜けると、落差2m程の段差が現われ、その先は予想通りに「沼地」と化していた。
しかし、くっきりと掘割が存在していた事が読み取れる。ただ、単線にしちゃ幅が広すぎないか?

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意を決して、慎重に泥濘を避けながら進んでいくと、足元に社標の刻印も鮮やかな地境杭があった。
しかし堆積した腐植と、山からの湧水で足元の泥濘が酷い。
長靴ならともかく、スニーカーではこれが限度。身の危険を感じる様な場所ではないが、装備が軽装過ぎた。
今回はここまでとして、撤収する。


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撤収時に少しでも足場の良い所を求めたら、こんな平場に出くわした。
この左手が国道からのアプローチで見つけた、この場所だ。


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廃道から現役道へ復帰。この場所もWEB上の記録によれば、10年ほど前までは薮に埋もれていたらしいのだが、ここから手前側には新しい住宅が立ち並んでおり、おそらく住宅地として分譲された事が切っ掛けで、整備されたのであろう。
ちなみに、休憩がてら写真撮影に邪魔な、軽四輪が去って行くのを待つ間にチャリストが一人、写真奥へと走っていった。おそらく同じ目的だと思われる。


Cimg2672

走り出して直に、路傍に高札が立てられている。内容を読むと戦国時代の話しとして、地豪の娘「しゃくやく姫」が甲斐武田家の三河侵攻の際に、追っ手から逃げ切れぬと井戸に身を投げて果てたそうで、ここがその地であるという。
しかし眉唾臭いなぁ。古来、日本の女性に貞操が求められる様になったのは、明治以後の話しだし、戦国の世といえど、女性は「捕虜」としてある程度優遇されてた訳(男子はどんなに幼くても死罪だが)で、「容姿端麗」とか「家柄が良い」女性は、ぞんざいには扱われなかったものだからだ。


Cimg2675

「しゃくやく姫の塚」を過ぎると、そこは未成線の到達最高度(サミット)となる。
ここを境に、長閑に山間を伸びて来たのが一転して、鉄道としては急勾配で下り始める。
ちょっとこの勾配は、本当に鉄道が開設されていたならば、鉄分が濃い~ぃ連中の「聖地」になったかもだ。
多分30パーミル(3%)は下らないんじゃないか?


Cimg2676

サミットを越えたところで、またまた「取ってつけた」如きな碑が出現。
「野口雨情縁の地」だそうだが、それって誰?
唱歌の「七つの子」作詞者らしいが、だから何?
なんていうか、見ていてこういう「ピントずれ」した”地域興し”てイタイんですけど。
本気で”売る気”があるのなら、近代産業史と絡めてこの「未成線跡」を正面に出した方が良いと思うよ。


Cimg2682

道は勾配を若干、緩めながら左へカーブ。
路肩に建つ「電信柱(架線されているのは電話)」が、架線柱っぽく見える。
正直に言えば、サミットを越えてからはチャリを漕ぐ必要はナッシング。
跨がっていれば自然と進んで行し、写真を撮る為に停まるのが面倒臭い。(笑)


Cimg2688

棚田と段々畑が広がる風景は、郷愁を呼び起こす。
ジブリ作品の風景が色々と言われるが、ちょいと感性のアンテナ・ゲインを上げれば、身近なところにいくらでもある。
もっとも、「ETC車載車のみ、高速料金定額」ってだけで、有名観光地に出かけるしか能が無い連中には、見つからない風景でもある。

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楽しい逢瀬も何時かは終りを告げる。
この先は、世界恐慌による資金繰り悪化や、土地買収交渉の難航などで、遂に鉄路が開かれる事は無かった。
この未成線が計画通りに、足助まで貫いていたらその歴史はどうなっていただろう。
太平洋戦争が始まるまでに開通していれば、昭和50年台までは旅客運送は先細りであっても、貨物輸送でそこそこ稼げていたと思う。
もちろん、トラック輸送にシェアを奪われた結果、最終的には廃線に追い込まれたのは間違い無いのだが。
ただ、未成に終った結果、早い時期に地元自治体に払い下げられたおかげで、近在の重要な道路として利用されているのは、「道」として幸せな事だと感じた。
今日の国道の込み具合からすると、沿線の農作業は終日にわたって「マヒ状態」に成りかねない状態なのだから。
本来の「鉄道」としては、生まれ出る事は出来なかったものの、近在の人々に愛され大切にされているのは、この「道」にとって幸せな事なんだと感じた道であった。


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2010年5月20日 (木)

名鉄三河線 未成線区間(西中金~足助町)中編

Nisinakagane1_2
現在位置を地図で確認すると、こんな感じ。国道からは車両が乗り入れできないので、地図では道が無いのだが、歩行者やチャリは問題無く通行出来る。
後に紹介するが、未成線跡は旧足助町道を経て現在は豊田市道に指定され、中金小学校へ通う児童の通学路となっている。おそらく国道からの四輪封鎖は、悪評高い「香嵐渓渋滞」をスルーしようとする車両をカットするものであろう。


Cimg2616
走りだして幾許かも行かないうちに、こんなものを見つけた。
「建設省」の文字もまだまだ鮮やかな、警戒コーン。
恐らく国道の拡幅工事の際に、工事業者が忘れて行ったのだと思うが、そのんま放置って事ですかね。


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市道(旧町道)との交差点。鉄路が敷設されていれば、踏切跡となった筈だが、それは敵わぬ夢。
この写真、現地では気付かなかったのだが、写真を整理していて気付いたのが、左側の”一時停止”標識の根元、赤丸で囲んだ部分。コンクリート製の地境杭がある。


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市道との交差点を渡ると、一気に視界が開けた。
鉄道は勾配とカーブが苦手。なのでこの様に有るか無いかの緩勾配で、真っ直ぐじっくりと高度を稼いで行く。
右手には国道を行き交うクルマが見えているが、上下線とも渋滞する程では無いが、クルマが途切れる事無く走っている。
この、のどかな光景と真逆の光景。

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路肩の側溝(と言うよりは、”水路”かも)にちょっと面白いものを発見。
土留めに竹を編み込んで施工している。欧米のエクステリア・ウォールのデザインに、「ウィーブ・ウォール」というのが有るが、それと施工方法は全く同じ。
これの施工は近在の人々による、「道普請」だよね、きっと。

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西中金小学校裏に到着。勾配は緩くても登りっぱなしは、さすがにキツく息が上がっている。
本来の路盤跡は確認する術も無いが、ここだけ道幅が広くなっている。学校のフェンス際にも地境杭が打ってあるところを見ると、停車場を設ける予定だったのかもしれない。
ただ。現代の営みから見ると、乗降客が見込めたのかは判らない。ただ昭和40年代までは結構な賑わいがあった事は覚えているので、林産物や農産物等の貨物需要は見込めたのかも。


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学校とは反対側の土手の上にあった、地境杭。名古屋鉄道の社標が、刻印されている。
この土手上は畑になっているし、足元を見れば筍を掘った跡があるしで、ビクビクものでの撮影。
もうちょと注意深く見ていれば、そんな苦労も無しに撮影出来てたんだけどね。

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学校から50m程にも、ホレこの通り。
なんか、相当に舞い上がっていたんだなぁ。まぁ走っていて、とても気持ち良い道だったし、嫁の機嫌を気にしなくて良いってのも有っただろうね。


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県道344久木中金線との交点。この県道の開通は10年程前だと思う。少なくとも私がパラグライダーに夢中になっていた頃にはなかったはず。
もっとも「険道」レベルでは存在していたかもしれんけど。

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国道との位置はこんな感じ。此方が急に高度を稼ぎ始めているのが判る。
現在の比高で2m程度であろうか。この先で国道をオーバークロスするはずだったのだ。


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とっとと、これまた剣呑な標識が。(笑)

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でも、まだ道は続いてるし。

種を明かせば「自動車通行不能」というだけで、「道が無い」訳ではない。
県道344号線との交点辺りから、路盤は鉄道らしい築堤で一気に高度を稼ぎ、国道を跨ぐはずだったのだ。


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個人的にかなり気に行っている一枚。
もう「天下の往来」の雰囲気は無くって、農家の庭先入って行く「私道」っぽい。手入れの行き届き具合も、「私道」っぽさを演出している気がするよね。


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遂に道が無くなった。ここが中金町側の終端。
かつては跨線橋が架設されていたのだが、いつしか撤去され国道の拡張で橋台も削り取られてしまった。

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築堤の突端から国道対岸を見ると、橋台が残っている。
そしてその先は薮の中へと消えている。
実はこの道を訊ねるにあたって、WEB上の記録を当たってみたのであるが、意外な事にこの橋台から先をリポートしている記事は存在しなかった。こうして見ても薮の蹂躙を赦しているのが見とれるのであるが、百戦錬磨の「鉄っちゃん」ですら辿りつけないなんて事があるのだろうか?

「後編」ではその辺りもレポートしたいと思う。

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